20年前、いわゆる「GID特例法」が成立しました。
現在では性別違和と呼ばれるようになった性同一性障害を持ち、自分の性自認や生活実態とは異なる割り当ての性別を身分証に書かれることで、日本社会におけるトランス差別に悩まされていた、日本の戸籍を持つ人たちにとって、自分にしっくりくる性別を法的に承認されるためのドアが 初めて少しだけ開かれました。
特例法があることによって生きる希望を持てるようになった人、文字通り命を救われた人も少なくないでしょう。
当時、戸籍制度に手を加えることさえ絶望視する声もあった中、たとえ少しだけでも、ドアをこじ開けた特例法は、やはり当時としては画期的な法律だったのだと想像します。
特例法以前の時代には、私も もちろん戻りたくありません。
しかし、私は特例法の性別承認のドアからは締め出されています。
特例法の要件の一つである、生殖機能を失う手術を受ける必要性を感じていません。手術を受けるお金もありません。健康上の不安もあります。
そもそも、そんな私個人の身体についての極めてプライベートな選択が、同じく私の極めてプライベートな選択であるべき性別と強制的に紐づけられている現状が おかしいじゃないですか。
今、この場に参加している人の中には、私のように、特例法の性別承認のドアから締め出されて、憤りを感じている人もいるでしょう。
特例法の「子なし要件」で困っている人がいます。「手術要件」で困っている人、かつて困ったことがある人がいます。自分は「非婚要件」と婚姻の不平等で困っている、という人がいます。
しかし、自分が締め出されたことのないドアについては、その存在にすら意識が向かないことがあります。
例えば、こう言う人がいます。「そんなに誰でも入れたら、既に部屋の中にいるマジョリティにドアを開けてもらえなくなるよ」
こう言う人がいます。「手術を受けたくない、受けることができないトランスは締め出されても仕方ない。」
こう言う人がいます。「未成年のトランスはドアから締め出されても仕方ない。」
こう言う人がいます。「男か女かXか決めたくない人は、ドアから締め出されても仕方ない。」
こう言う人がいます。「診断書のない人は、ドアから締め出されても仕方ない。」
このような人は、「そんな過激なことを主張したら、マジョリティが反発して、自分までドアを通れなくなってしまうのではないか」と、心配しているのです。
しかし、想像してみましょう。ジェンダーフルイドの人もいます。Aジェンダーの人もいます。住んでいる地域であるとか、障害や病気であるとか、収入や家庭の事情であるとか、様々な複合的な事情で診断書の取得が難しい人がいます。医療へのアクセスが難しい人がいます。煩雑な手続きをこなせない人もいます。こういう人たちは、ドアから締め出されても仕方ないのでしょうか?
そうではありません。
そもそも、私たちマイノリティが「どのドアを優先すべきか」とか「誰の後ろでドアを閉じるべきか」をめぐって対立してしまう、つまり、自らゲートキーピングをしてしまうのは、そこにドアがあるからです。
本来みんながもっと自由にアクセスできてよい場所、例えば、多くのシスジェンダーの人が予め享受している、法的な性別に違和感のない状態が、差別的な法制度や社会通念という壁で囲まれていて、誰がその中に入れるかを選別するドアが設けられているからなのです。
その壁とドアこそが「分断」を生み出しているのであって、自分だけ締め出されて怒っている人ではありません。
その人を犠牲にすることで一部の人だけ自由に入れるようになっても、それは本当の自由ではありません。
私たちは、壁やドアの存在自体にもっと注意を向けるべきです。
本来開かれているべきなのに、壁で囲まれていて、ドアが厳重に管理されていること、一部の人しか入れないことを批判しなければなりません。
壁の撤去や全てのドアの開放をこそ、可能な限り、求めていくべきなのです。
それは決してごく一部の人にしか支持されることのない「過激」な要求なんかではありません。
本来誰でも守られるべき人権を壁で囲んで一部の人しか守られないようにすることの方が、よほど「過激」な差別思想だと、私は思います。
それぞれ締め出されているドアは違っていても、その部屋に既に入れている人と同じように自分たちも自由にアクセスしたい、という思いは同じです。そこを通じて互いに連帯すればいいのです。
「誰かが入れないままなのは仕方ない」と切り捨てることこそ、私たちから連帯の力を奪うことであり、差別者の思うつぼだと思います。