元の記事:
https://scatter.wordpress.com/2022/01/30/sex-as-a-social-construct/
「性別1は社会的に構築された概念だ」と私たち(生物科学者を含む)が言うとき、私たちは何が言いたいのでしょうか。ヘンですよね? 性別って生物学の問題じゃないんでしたっけ? 「社会的に構築された概念」と言うと、「他の物事と全く無関係で好き勝手に変えられる、テキトーな何か」のように思われることがあります。でも、それは「空白の石版」の立場で、藁人形論法です。「性別は社会的に構築されている」と言うときに私たちが本当に言いたいことは、そういうことではありません。もっとずっと面白くて、正当性のあることです。
「性別」とは、互いにいくらか相関する色々なモノゴトがある、という観察結果を人間が言い表した言葉です。いくつかのモノゴトは、一緒に現れがちです:より大きな筋肉量、テストステロン、睾丸、Y染色体、アメリカ合衆国最高裁判事の椅子、実刑判決、体毛、身長、平均寿命の短さ… これらは全て相関しています。これら全てのモノゴトが頻繁に一緒に出現するのを見て、パターンを見つけて名前をつけるのが好きな私たち人間は、そのパターンに基づいて人々を「男性」と「女性」というカテゴリーに分類し、その分類を「性別」と呼んでいます。
しかし重要なことに、性別とは、誰かの身体の中にある肉体的なモノゴト(染色体、ホルモン、生殖腺、毛、筋肉量…)のどれか一つでもなければ、誰かの人生の中にある社会的なモノゴト(服装、仕事、興味、行動…)のどれか一つでもありません。性別は、それらのモノゴトの間の相関関係に私たちがつけた名前です。人間が考えた概念です。つまり、人々が一緒に話し合って(=社会的に)作り上げた(=構築した)概念、という意味において「性別は社会的に構築された概念」なのです。私たちが「性別」という概念を作り上げるのに、生殖腺などのような、世界に「実在するモノゴト」の観察結果を使ったのは当たり前です。社会的に構築された、ということは、それを否定するものではありません。
では、なぜ性別が社会的に構築された概念であることを強調するのか? なぜ、身体の「現実」と、私たち人間によるそれらの身体についての記述の間のギャップを指摘するのか? それは、「性別」という私たち人間による記述はモノゴトを単純化しすぎているし、これらの過度な単純化は、ときどき間違っていたり、有害だったりするからです。
私たちが性別を構築するとき、私たちはそこにどんなモノゴトを含めるかについて、たくさんの選択をしています。1900年には、学歴は生殖腺の種類と非常に強く相関していました。当時は、卵巣が性別の構成要素の一つだと言われているのと同じように、知能も性別の構成要素だと言われていました。教育は卵巣を縮ませる、とまで言われていたのです! 女性のほうが男性よりも多くの学位を取得するようになった現代では、そういう話はあまり聞かなくなりましたが。30年後、私たちは性別を構成する他のモノゴトと相関する化学物質を発見しました。私たちはそれらを「男性・女性ホルモン」と呼んで、性別の概念を構成する要素に追加しました。後に「女性ホルモン」がウマのペニスから出てきた尿の中に発見された時、とても不機嫌になった科学者たちもいました。ペニスとエストロゲンは一緒に出現しないはずだったのに! なにせ私たちはその化学物質が ペニスを持っていないことと相関すると確信していたからこそ、それを「女性ホルモン」と呼んだのですから。今日でも、新型コロナウィルス感染症の治療薬としてエストロゲンが提唱されていますが、それは女性のほうが罹患率が低く、性別概念によれば「エストロゲン=女性」だからです2。私たちが性別の構成要素だと考える生物学的な相関や差異は、時代や社会的文脈によって変わります。例えば、今日では、女性の走る速度は昔よりもずっと男性の速度に近づきました(スポーツへのアクセスのしやすさが変わったからです)。また、学者たちは、性別による身長差を ある社会の「男子選好」の強さの指標として用いています(性別ごとの栄養へのアクセスのしやすさが社会によって違うからです)。
このような例はたくさんあり、そういった問題を扱う科学技術論(STS; science and technology studies)の活発な学問分野が存在するほどです。そして、それよりもさらに大きく活発な、性の多様性――すなわち、たくさんの異なるモノを大雑把に二分法的な概念に押し込めることがいかに間違っているかということ――についての生物学的研究分野もあります。その中にはインターセックス/性分化の多様性(例えば、Y染色体は睾丸の発達を保証しない、など)の研究も含まれますが、多くは体内の物理的・発達的経路についての退屈な普通の(原文ママ3)科学であり、性別を構成する様々な要素の濃度やタイミング、そしてそれらの複雑な相互作用の重要性を示しています。もちろん、これが単なる学者同士の内輪話だったら、私はこの話題についてツイートもブログも博論も書いていないでしょう。
話が本当におかしくなるのは、人々が性別についての自分たちの理解に基づいて、社会がどうあるべきかを規範的に主張し始めるときです。悲しいことに、私たちは今、性別をめぐる激しい公的・法的闘争の真っ只中にいます。例えば ホルモン補充療法(HRT; hormone replacement therapy)はトランスジェンダーの人たちにとってはますますアクセスが難しくなってきていますが、ジョー・ローガン4のような人たちにとっては依然として受けやすいままです。なぜか? トランスの人々にとってのHRTが、二分法的な性別の期待されている相関関係を変え、逆らうための技術なのに対し、ジョーにとっては、テストステロンを投与することは、それらの相関関係を確かめ直すための技術だからです。
ここで私たちは、「性別」という、世界の仕組みをまとめた人間の考え、私たちの頭の中のモデルを、単なる真実を超えた、道徳的に正しいあり方と見做してしまうという過ちを犯しています。「264~916ng/dLのテストステロン濃度を持っていることは、 Y染色体や、ペニスや、ひげなどを持っていることとしばしば相関する」という大まかな相関関係の記述的真実を、「ペニスを持って生まれてこなかった人のテストステロン濃度は5nmol/L以下でなければならない」という道徳的主張と取り違えているのです。
私たちが「性別は社会的に構築されたものだ」と言うとき、私たちはこのことを人々に思い出させようとしています。「何と何が一緒に出現するか」「何と何が一緒に出現するべきか」についての私たちの考えが、あくまで人間の考えであることを思い出させるのです。実際に何と何が一緒に出現するかについて、私たちの考えが間違っていることもあります。また、何と何が一緒に出現するべきかについての主張は、時に道義に反することもあります(例えば、工学系分野で女性が働くべきかどうかについて)。性別とは人間が世界について主張している考えである、ということを覚えていれば、私たちはその考えを変更し、より正確でより倫理的なものにするためのツールを手に入れることができるのです。
この理解によって、私たちの性別についての話し方も変わります。性別は生物学的にモノゴトを引き起こすことはできません。差異の原因にはなりえません。なぜなら性別とは、私たちが観察したパターンの名称だからです。時にはそれらの原因の代用として役に立つこともあります。しかし、私たちが本当のメカニズムに目を向けることをかえって妨げることもあります。同様に、「男性であること」「女性であること」もモノゴトの原因にはなりえません。それらは、私たちが社会的に構築した性別のカテゴリーの名前だからです。近年、性別についてのより緻密な言葉遣いを求める人々が指摘しているように、これらの言葉は様々な現象の生物学的・社会的メカニズムを見えにくくしていることがほとんどです。
「性別は生殖機能と配偶子の問題だ」と反論する人もいるでしょう。そうですね! 英語で「性別」を意味する“sex”は、「セックスをする」というように、性交5を意味する言葉でもあります――それが赤ちゃんを作らない場合においても。でも、今の社会で議論されている性別の問題は、生殖機能と配偶子、どちらの意味についてのものでもないのです。スポーツや、トイレや、医療、教育、雇用などへのアクセスを決定するために、ノギスで配偶子のサイズを測って回る人はいません。さらに、これらの問題は、生殖機能のない人々を排除するという話でもありません。生まれたばかりの男の子はまだ配偶子(精子)を持っていないので、出生証明書に「M(男)」と記すべきではない、などと言う人はいません。閉経や子宮摘出(女性の9人に1人が子宮摘出を受けています)後の女性の運転免許証の「F(女)」表記を取り上げようとしたり、入浴を禁止しようとしたりする人はいません。実は、本当の問題は生殖機能そのものではないのです。その代わり、人々は顔の構造、乳房組織、声の高さ、髪の長さ、服の選択など、無数の相関するものから性別を推測しています。つまり、かれらは生殖機能という意味ではなく、この記事で説明したような意味で「性別」という単語を使っているのです。(ところで、人間とは全く異なる仕組みをとっている他の種の有性生殖については、楽しい事実が山ほどあるのですが。生殖だけに話を限定したとしても、性は複雑なのです。もし私たちが単に社会的な主張の根拠として振りかざすためではなく、本当に生物学に興味があるのなら、性は一般的に考えられているよりもずっと興味深くてややこしい代物です。)
また、ここでの私の説明に同意はするけれど、「セックス」ではなく「ジェンダー 」という言葉を使うべきだ、と直ちに主張する人もいるでしょう。この区別は、社会生活における多くの事柄(キャリア、教育、家事など)を生物学と結びつけるべきではないという、フェミニズムの古くからある非常に価値ある主張からきています。(“sex”の意味での)性別が社会的に構築されていることを主張する人たちも、その主張には賛成です。しかし、私たちはさらに踏み込んで、科学者たち(そして一般の人たち)による性の生物学的な理解もまた、ジェンダーが社会的に構築されたものであるのと同様に、社会的に構築されたものであることを指摘しているのです。そこで、STS(科学技術論)の膨大な研究成果が役に立つのです。
ここで私が「相関関係」という言葉を使ったことに対して、「実際に因果関係もあるではないか」と異議を唱える人もいました。全くその通りです:モノゴトの間の相関関係は、そこに因果関係があるときに見られることもあります。例えば、ある化学物質を注射すると身体に劇的な影響が現れることは、HRT(ホルモン補充療法)を受けたことのある人なら誰でも知っているはずです。性別を構成する様々な要素を結びつける因果関係の連鎖は長く、多くの複雑な相互作用から成り立っています。性についての優れた生物学的研究は、それらの相互作用を探求し、私たちの性別概念の修正と洗練に役立つものです(すなわち、それは性別の社会的構築の良い部分であり、必要な部分でもあるのです)。
このブログ記事は、Twitterの...少しばかり人気のある...スレッドから転用したものです。ドイツ語、ロシア語(2回)、スペイン語、日本語に翻訳されており、おそらく他の言語にも翻訳されていると思われます。
2/2更新(より原文のニュアンスにピッタリの訳を思いついた細かい表現などを修正)。
訳者注:前半はゼロから、後半は疲れたのでDeepLの翻訳を叩き台にして、元の文章の内容やシンプルな筆致がなるべくそのまま伝わるよう手を加えました。訳者はこのトピックの専門家ではありませんが、生命科学分野での研究歴はあるので、そんなに的はずれな訳にはなっていないと思います。もちろん、何か誤りが見つかったらご指摘いただければ幸いです。
社会的な性別としてのジェンダーgenderと対比される、「身体的」「生物学的」な性別としてのセックスsex。
女性の罹患率の低さのみからはエストロゲンの治療薬としての有効性を論理的には導けないが(因果関係があるとは限らないため)、女性とエストロゲンが性別概念を介して人々の頭の中で結びついているからこそ、女性の罹患率の低さから「エストロゲンは有望な治療薬なのではないか」というアイデアが生まれたのだ…ということを筆者は言いたいのだと思う。もちろん、だからといって必ずしもそのアイデアが間違っているとは限らない。実証は十分な治験を待たねばならないだろう。
原文:boring, normal science。インターセックスの研究は「普通の」科学研究ではないとでも言いたいのだろうか? もしそうならこの点に関しては訳者は筆者と賛同しかねる。
アメリカ人シス男性コメディアン。自身が司会を務めるポッドキャスト「The Joe Rogan Experience」が人気。トランス女性のスポーツ参加を批判するなど、トランス排除的な発言をすることがある。ホルモン補充療法としてテストステロン投与を受けている。
原文:fucking。